1つの言動と人格は、明確に分けて考えるべき
人から叱られるのは、つらいもの。
しかし、自分の成長のためにはとても貴重な機会でもある。若いころにたくさん叱られた経験のある人ほど、自分の行動を客観的に見ることができ、そのぶん気をつけて生きることができる。
自分のミスに気づけないままだと、将来にもっと大きな失敗を犯すリスクもある。上司だったらきちんと指摘してくれるところを、相手が顧客だったら、黙って去って行くだけかもしれない。
叱ることには、大きなコストがかかる。相手に嫌われてしまうこともあるだろう。しかし、そのリスクを覚悟してでも叱ろうと思うのは、今後もその人とかかわろうという意思があり、少しでも良くなってほしいと考えるからだ。
単に怒りをぶつけてくるだけの人はやっかいだけれど、相手が「こちらのことを思って叱ってくれている」と思えるときは、それを真摯な姿勢で受け止められるようにしたい。
そのときに大切なのは、「自分の行動を叱られている」ことと、「人格を否定されている」ことはまったく違うのだと理解すること。
これらの2つを分けて考えられず、少し叱られただけで、人格を否定されたように感じる人がいる。
そのような姿勢だと、成長のチャンスを逃してしまうばかりか、最悪の場合、自分の精神を病んでしまいかねない。
そもそも、叱られる原因となった、たった1つの行動で自分の全人格などわかるはずもない。人間、完璧でないことなど誰でも知っている。
どんな人であろうと、必ず失敗はするのだ。その失敗は、単に経験が足りなかったとか、注意が不足していたから発生したものだ。
だからもし何かの指摘を受けたなら、それをいい機会として、次から注意すればいいだけ。それこそが健全な成長ということ。
人を 〝単純な善悪〟で二分しないこと
もう1つ、同じように大切なのは、自分が他者をどう見るかという姿勢だ。他人のたった1回の言動で、その人を全否定してしまうようなことがあってはならない。
特にSNSの世界では、短いテキストでのコミュニケーションが多いため、言葉だけを切り取って相手を拙速に評価してしまう傾向がある。
ちょっとでも気に入らない発言があると、すぐにその人を「敵」と認定してしまうような姿勢だ。だから、いつも争いが絶えない。
人は、自分のフィルターを通して世界を見る。それは、複雑な世の中を理解可能なレベルにするために、人間にとって必要不可欠な機能でもある。
しかし、それが極端な「単純化」として働いた場合、まわりの人たちとの関係に大きなマイナスの影響をもたらすことがある。
その中でも特に問題なのは、他人のたった1回の言動を目の当たりにしただけで、「この人は自分とどうしても相容れない」と思ってしまう発想だ。
そうなると、もしその人が自分にとって重要なことを言ったとしても、それに気づくこともなくなってしまう。このような姿勢におちいると、自分の学びや成長の機会を自分で捨てることになる。
相手を敵か味方かという二元論で考えると、合意できる点を見出せず、建設的な議論ができなくなってしまう。こうなると、完全に不毛な二者関係におちいってしまうだろう。とてももったいないことだ。
人のたった1回の言動と、その人の人格は本来は別のものであるはずだ。しかし、そのような考え方をしっかり持っていないと、両者を分けて考えることができなくなってしまう。
だからこそ、いつも明確に、「言動の内容」と、「その人の人物像」は、別のものとして考える習慣が大切だと思う。人が言ったことを、冷静に「そのときの1回の意見」として捉えると、もっとシンプルに理解することができるはず。
しかし、その人の「すべてを表す言葉」だと思ってしまうと、誤解を生み、ときに感情論におちいってしまう。これはとても危険な考え方だ。
人間は複雑なものだから、あまり単純化しすぎると理解を間違う。人を見るときも、見られるときも、「1つの言動」と「人格」は、明確に分けて考える習慣を持とう。
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この記事は、アースメディア代表 松本 淳 著 『リクルートに会社を売った男が教える仕事で伸びる50のルール』(フォレスト出版)からの一部抜粋です。